テーマと構造から読み解くけものフレンズ2
目的
けものフレンズ2という作品を取り巻くインターネット環境はあまりにも苛烈だ。
そこらじゅうのインターネットコミュニティで舌禍が渦巻いている。
しかし果たしてけものフレンズ2はそれほどまでに酷く何も考えていないような作品なのだろうか?
そんな世界中から悪意という悪意を濾し取って煮詰めたような悪逆な作品なのか?
個人の感想それ自体にとやかく言うつもりはないけれど、流石にあまりにも言葉が過ぎる。少なくとも私にはそう感じられる。
なので個人的な感情とネタバレをなるべく排した解説を公開したくなった。
ただいくら感情を排すると言っても私はシステムにはなれないので主観的な表現や解釈が入り込むことは否めないためそのあたりを留意してほしい。
参考
「けものフレンズ2」制作会社トマソン、抜擢の舞台裏は? 沼田P「その場でやらせて下さいと…」【インタビュー】
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本文
まず初めにこのエントリーはテーマと構造から読み解くけものフレンズ2というタイトルを冠している。
ということは初めにやらなければいけないことは、けものフレンズ2が一体何をテーマとして描かれている物語なのかを定義しなければならない。
幸いこのテーマという部分はネットインタビューで監督の木村隆一氏と脚本のますもとたくや氏が簡潔に答えてくれている。
なのでとりあえずこの記事としては大きなテーマを“「人間にとって家とは何なのか」”、“「動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性」”の二つであると定義したい。
テーマが定まったので次は構造だ。
構造というのはもちろん物語の構造に他ならないのだけれど、どちらかといえば文脈という言葉の方が正しいかもしれない。
構造なんて言い方だと仰々しいけれど、まあつまるところストーリーやシナリオがどんなふうに進んでいるのか? ということだ。
……、『展開』という言葉が最も適切かもしれない。
とりあえず言葉の正確性を追求するのはおいておこう。
けものフレンズ2の物語の基本形はサーバル、カラカル、キュルルがゲストのフレンズと出会い、遊びや対話を通してお互いの理解を深め最後にキュルルがスケッチブックに書いた絵を渡す、という構図だと思われる。
これはキュルルとサーバル、カラカルの出会いが描かれる1話から9話までほぼ共通で、この構図が明確に崩れるのは物語が佳境に入る10話以降になる。
基本的に構造自体は極めてシンプルだ。
キュルルたちがフレンズたちと遊びや対話を始めるきっかけはフレンズの持つ何らかの問題であることが多い。
そしてこの問題という部分にテーマの一つである“「動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性」”と密接に関わっている。
特に顕著なのは、2話「ぱんだとぱんだ」、3話「うみのけもの」、9話「おうちにおかえり」辺りの話数だろう。
それぞれ大きく扱われているフレンズは、ジャイアントパンダとレッサーパンダ、カリフォルニアアシカとバンドウイルカ、オオセンザンコウとオオアルマジロのコンビにイエイヌとなっている。
2話と3話で登場するフレンズたちはかつて動物園や水族館で飼育されていたらしいことが窺える描写がある。
パンダたちは人の思うその動物のイメージに引きずられる形で性格形成がなされていて、イルカたちは環境エンリッチメントの一環であるショーのパフォーマンスの行動が習性として残ってしまっている。
一度人と深く関わってしまうと生き方が変わってしまう。そしてそうなってしまった動物をフレンズとして描いている。
この二つの話では特にそれが良いとも悪いとも答えを出していない。というよりもこの話に限らずけものフレンズ2ではそういう二元的な判断をすることを避けている節がある、と私は思う。
失礼、大事なのは良し悪しのお話ではなく構造とテーマのお話なのでそこはあまり関係がなかった。
2話と3話で描かれた“「動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性」”というテーマのお話をさらに一歩前に進めたお話が9話だ。
それはもう登場するフレンズを見れば一目瞭然に分かることでもある。
何せイヌ、イエイヌだ。ある種最もポピュラーな動物と言っても過言ではない。
古くから人と一緒に暮らしてきた動物で賢くよく懐き、従順。
けものフレンズ2でのイエイヌもそのイメージに準じている。
またこの話の冒頭では絶滅危惧種のフレンズに希少で珍しいモノ扱いされるヒトという現実とは逆転した構図が描かれている。この辺りからも“「動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性」”というのが一貫したテーマであることが窺える。
9話で描かれていることは出会いと別離。それからこれまで遊びを提案してきたキュルルが逆にイエイヌに遊びを教わるという逆転の構図。
この話数は通してみると非常に見どころが多く、ヘタに踏み込んだことを言おうとするとネタバレに抵触するので口を噤んでおく。
ただ一つ確かなことは一方的な視点で見て近眼的な判断をすることをこの話は強く否定していて、そのあたりもけものフレンズ2では二元的な判断をすることを避けている節があると私が考えている根拠としてあげられる。
自分がどうしたいのか、というのは確かに重要だ。だけれど“「動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性」”というテーマを考えると必然的に反証として自分がこうしたいけれどではそれをされる相手はどうなのだろうか? という疑問を呈さずにはいられなくなる。
そしてこの9話はある意味ではそれに対して一つの答えを返してくれている。それは良し悪しにかかわらず尊重されるべき答えなのだ。
さてそれではもう一方のテーマである“「人間にとって家とは何なのか」”に言及しよう。
話数としては4話と6話、それから10~12話もだろうか。
しかしとりあえず今は基本構造としての話だから4話と6話の話をしたい。
4話は動物のお家の話で、6話は人の家の話だ。
まずは4話から。
4話は簡単に説明するならば家を探すフレンズについていろいろな場所を回る話だ。
新しい住処を探しているフレンズのアードウルフと新しい住処を紹介する役であるアリツカゲラが中心になっている。
この話では家とはどういうモノであるのか、ということを暗示していて、同時にけものフレンズ2という物語の着地地点をも暗示してる。
また視点や状況が変わると同じ場所からの景色でも見え方が変わることがあるということも明示されることになる。
4話「いろんなおうち」はけものフレンズ2というアニメを象徴する構造を持っているように思えてならない。
紆余曲折を経てアードウルフはある場所を住処にすることに決めるのだが、この決断や思考プロセスは最終話となる12話においてキュルルの得た答えと重なる部分がある。
核心部分については言葉を濁すが、家とは何かという問いに対しての答えとしてはやや情緒的な部分が強い。しかし、その情緒的な部分こそけものフレンズ2が描く物語の本質ではないかと愚考できる。
次に6話を見る。コチラは物理的物質的な人の家というものが大きく映し出される。
縄張りや住処よりも直接的で文明的な家だ。
これはおそらく4話で描かれた観念的で抽象的な家とは対比の形になっている。
6話で大きく登場するキャラクターはアフリカオオコノハズクとワシミミズク、それからカバンである。
前作けものフレンズにも登場したキャラクターたちだ。
今作での彼らは研究者としての立ち位置をもっておりキュルルたちに対して謎と答えと道しるべを提示してくれる。
また前作と今作の間に何かがあった可能性が示唆される描写もあり、キャラクター達の時間経過を感じさせてくれる。
キャラクター達の時間経過とはつまり、成長だ。
成長によるキャラクターイメージの変化は物語とは切っても切れない。
おそらくもっとも適切な言い方をするならばそれは「大人になった」だろう。
少なくともこの変化に対して私自身はあまりネガティブな印象を受けなかった。
何か視聴者の知らない道のりがあり、カバンというキャラクターはそれに対して自分で責任をもって決断を下した。そういう大人としての分別を弁えたキャラとして描かれているように見えたからだ。
ただ6話ではテーマである“「人間にとって家とは何なのか」”自体はそれほど深く掘り下げられておらずただ人が住む家が確かな形で登場するのみだ。
いや言葉を正そう。人にとって家とは当たり前にそこにあるということが重要なのだ。であるならば、確かな形で家がそこにあるというだけで必要十分なのである。
代わりに6話ではセルリアンやセルリウムといった物質や現象についての言及が成され、視聴者により深くけものフレンズ2の世界観を提示してくれている。
ここまででけものフレンズ2の二つのテーマと密接に関わっているだろうと思われる2,3,4,6話について言及させてもらった。
では今言及しなかった5,7,8話は重要ではないのだろうか? いや、その三つの話にも明確な役割が存在している。
まずは5話。こちらは非常に分かりやすく1期で描かれたライオンとヘラジカのエピソードを踏襲した形のお話が展開される。
なぜ前期の話を踏襲した形でのエピソードが描かれたのかといえば理由は一つしかない。話の最後に前期の主人公であるカバンが登場するからだ。
2期が提示するシナリオの基本フォーマットの流れを1期のエピソードという型に流し込んだ形だ。
ただこの5話にはもう一つ別の目的が存在している。
それは簡単に言えば「発展形」だ。
例えば2話ではジャイアントパンダに対して劣等感を抱くレッサーパンダ、3話ではキュルルたちとカリフォルニアアシカたちが持っている常識の違いによってのすれ違いが描かれているが、これはほぼ一対一の形だ。
正確性を期すならば部外者であるキュルルたちと仲の良いモノ同士のフレンズたちという対立軸をとっている。
4話のアリツカゲラとアードウルフは特別仲がいいわけではないけれど、お互いに悪感情があるわけでもない普通の知人という間柄だ。
2,3話と4話では登場するフレンズたちの距離感が少し異なった形になっている。
こういう観点から5話を見てみると、明確な対立軸として描かれていることが分かると思う。
キュルルたちとゴリラがヒョウとクロヒョウ、イエリワニとメガネカイマンを諫めるという構図だ。
これは1~4話までで描かれていた基本形から一つ発展した形だ。
そしてこの相互的な対立軸は明確な意図をもって描かれていると判断できる。理由は大きく二つ挙げられる。
一つはのちの話にあたる7話にある。
5話での明確な対立軸は力関係としては均衡がとれている。
しかし7話で描かれる対立軸はチーターとプロングホーン、Gロードランナーと数の上で不均衡なものになっている。
そう、けものフレンズ2ではキャラクターの関係性を段階を踏んで難しいモノへと変移させていっているのだ。
もう一つの大きな理由は少し説明が難しい。というのも、かなり主観的な意見になる部分があるからだ。
先に個人的な見解としてけものフレンズ2では二元的な判断を避けている節があると述べた。
加えてけものフレンズ2では徹底して心や感情の曖昧な部分を描いていると感じられる部分が多々ある。
心や感情の曖昧な部分を描きながらもそれに対して作中では明確に二元的な判断を下していない。
けものフレンズ2では明確で分かりやすい正解はほとんど出てこないのだ。
いや、そもそもにおいてけものフレンズ2では答え自体はあまり重要視されない。
むしろ重要なのは心の在り方。キャラクター達はほとんどの場合で正否ではなく納得で行動している。
つまりけものフレンズ2は徹底的に心に寄り添った物語なのだ。
キャラクター同士の関係性という部分に注目して各話を追いかけると
2話 仲の良い友達との劣等感によるすれ違い
3話 お互いにとっての常識の食い違いによるすれ違い
4話 深く知らないもの同士が集まって同じ目標を探す
5話 均衡状態の対立軸にあるモノたちの仲を取り持つ
6話 対話ができない相手と出会う
7話 不均衡状態の対立軸にあるモノたちの仲を取り持つ
8話 PPP
9話 利害の不一致、感情の食い違いからの折衝
このように順番に関係性がステップアップしていくように作られている。
8話がPPPなのはPPP回だからというのが一つ、あとは9話へのクッションとなっている部分があるためだ。
個人の感想としてはけものフレンズ2のシナリオは非常にシステマチックに組み上げられているように思う。
1~9話を踏まえたうえで、最終エピソードとして連続したつくりになっている10~12話も見ていきたい。
流石にこのあたりになるとネタバレに抵触する可能性がある。もちろん出来るだけ言及は避けるが。
まずこのエピソードで大きく取り上げられているキャラクターをまとめておく
リョコウバト、オオミミギツネ、ハブ、ブタ、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウ、アムールトラ辺りだろう
ラストエピソードなのでほとんどオールスター状態ではあるのだが
さて、まずは結論から言おう。
このラストエピソードでキュルルが得たものは答えではなく納得だ。
そして先述したけものフレンズ2は心に寄り添った物語であるという観点からみるとキュルルが自分なりの納得を得るということは作品のラストを〆るのに相応しい結末といえる。
構造とはあまり関係がないかもしれないが大型セルリアンに対しての個人的な見解を述べたい。
私はけものフレンズ2においてセルリアンは実はあまり敵として描かれていないように思える。
例えるならば雨が降っているから傘を差す。セルリアンが襲ってきたから返り討ちにする。この二つが=で結ばれるような印象がある。
つまり、セルリアンは明確な敵というよりは不可抗力で生じる災害に近い扱いなのではないか、ということだ。
これは海の大型セルリアンが徹底して海のご機嫌が悪いと表現されていることから読み取った。
海の大型セルリアンはそれこそ火山が噴火したり津波が起きたりといったもうどうしようもないことの一種として認識されているのではないだろうか。
火山の噴火を恐れるたとしても、だからといって火山を破壊しようとはだれも考えない。それと一緒だ。
自分たちに延々と火の粉が降りかかり続けたら堪らないのでコピーセルリアンの発生元は断たないといけない。
キャラクターの思考プロセスとして左程違和感はないと思われる。
構造の話に戻りたいのだけれど、しかし言及したい部分については主観的な強さがぬぐえない。
何より、考えれば考えるほど物語の構造としては基本に忠実で改めて解説する必要があるとは思えない。
少し深めに言及するとすればアムールトラが最適だろうか。
けものフレンズ2におけるアムールトラの持つ大きな役割は対話ができない相手ということだ。
対話のできない相手に一体どう立ち向かえばいいのか。そしてその対話のできない相手が本当はどういう存在であったのか?
ある事情により同族が世界から消えてしまっているフレンズリョコウバト。キュルルはそのことについては深く知らない。けれど、それでも彼女の抱える感傷は本人の口から聞いて知っている。
もしかするとあの世界ではリョコウバトと同じように人もまた世界から消えてしまっているのかもしれない。
そんな状況の中でキュルルはリョコウバトを身を挺して守り、仲間だと言えた。これがけものフレンズ2を通して成長したキュルルが見つけた一つの答えだ。
しかし、それでもアムールトラと立ち向かうのにはまだまだ足りていない。
この余白の部分を投げっぱなしと捉えるか世界観の広がりと捉えるかは各々が好きなように判断を下したらよいかと思う。
プロの仕事に対して構造解説などという記事をあげるのは愚にもつかない行動のような気もするが、ひとまずけものフレンズ2がどういう構造をもった物語として描かれているのかという部分の個人的見解は粗方かけたと思うのでそろそろ記事を閉じることにする。
このエントリーが1クールアニメの感想として長いのか短いのかはよく分からない。けれど、少なくともド素人の私がこのくらいの解説を付けられるくらいにはけものフレンズ2という作品はきちんと練って作られているはずだ。でなければ私がこんな文章を書けるはずがない。
本当の意味で先入観をなくすことは難しいけれど、視聴するときに抑えるべきポイントを理解したうえでもう一度見たならばもしかしたら何かが変わるかもしれない。
そういう人が一人でもいたならばきっと私がこれを書いた意味もあったように思う。